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おはようございます。みなさん。朝早くからご苦労様でございます。
聞くところによりますと、長野県全域からお集まりとのことでございますが・・・ もっとも、この中で一番遠くから来たのは私でしょうけれども。一番早く起きたのも私だと思います。今日は6時過ぎの新幹線に乗りました。練馬に住んでいますから4時半に起きました。東京から長野まで寝られると思ったのですが、でもその時間にもう盛り上がっている主婦の一団がおりまして、笑うは叫ぶは大声で話すはで一睡も出来ませんでした。控え室でうとうといたしましたが、大丈夫です。皆さんのお顔を見ましたらしっかり目が醒めました。タイトルは「私の取材ノート〜その時歴史が動いたの現場から〜」ですが、図書館大会ということですから歴史の番組を半分、残りはテレビの言葉づかい、文体についてお話を進めていきたいと思います。 ◇◇◇ 現在3つの番組を担当していまして、「新シルクロード」を2005年から、ラジオ番組で「藤沢周平を読む」というのを担当しています。今、「三屋清左衛門残日録」を読んでいますがまもなく終わりまして、来年1月から「用心棒日月抄」を読むことになっています。この朗読は時間の都合で一部割愛するというようなことは一切無く、一言一句をひと言も減らさずにそのまま読んでいます。音楽、効果音なしで私の声と間で楽しんでいただこうとしています。辛ろうございますが、これは自分に課した方法論でございますので歯を食いしばって頑張っていこうと思っています。 「その時歴史が動いた」は皆様方のお力で長寿番組に育ったということで、心から感謝申し上げます。単に長寿だというだけでなくクオリティの高い番組として育ちました。皆さまの信頼を裏切ることがないように愚直に作っていこうと思います。合言葉は愚直に、確実に、まじめにということです。放送開始から8年目に入り、9月26日で300回記念を放送しました。まさに300種類の「その時」をご紹介したということです。 私たちのコンセプトからお話したいと思います。NHKの歴史番組としては、鈴木健二さんがおやりになった「歴史への招待」という番組が5年続きました。2桁台の視聴率を取る番組になりました。これはまさに鈴木健二さんの力によるものです。しかし長く続くとどうしてもそこに滓のようなものが溜まってしまいます。マンネリズムというものです。担当者は真剣に当っているのですが、ご覧になっている方から見ると何だか同じように見えるという感想が積もってまいりまして、漸減傾向になりやがて1桁台の真ん中以下になる状況になりました。 何とかあの隆盛ぶりを復活させたいということで、2000年になって、新しい千年紀を迎えるにあたって歴史番組を死ぬ気でやろうと、身を投げ打ってやるから一緒にやってくれないかという話がありましたのが2000年1月7日のことでした。この番組は、ひとりのディレクターが1本100日、ほぼ3ヶ月かけて作っています。ディレクターは寝食忘れて飛び回って、まさに一生懸命作っています。 我々は事前に新しい番組が、いかに皆さん方に興味を持って見ていただけるか議論しました。その結果できあがったコンセプトが3つありました。コンセプトの1つは、太陽の光が差さないスタジオの中でゲストと資料を広げて云々することが主流の番組にならない、必ず現場を見ましょう、現場を大切にする番組にしようということです。私が行けない時には、現場からのメッセージのためにカメラマンが必ず行く、現場の空気や風を感じて現場の息吹が伝えられる番組にしよう、スタジオの中にだけいて、机の上に一杯資料を積みあげてそれを読みながら処理することが全てという番組ではなくしようということです。 2つ目は専門家がご覧になって視聴に耐えうる完成度をもった番組にしよう、それだけのクオリティをもった番組を作っているのだという自負を持とうということです。たとえばゲストを誰にするかということが大変大事な問題です。視聴率を稼ごうとするあまり有名人を連れてきて、その人の名声で視聴率を上げるという手段は取らないでおきましょう、ゲスト選定の基準はその人が有名かどうかじゃなく、その人がその歴史的事項にどれだけ興味を持って勉強して研究しているかであって、ご存じの方が少なくてもそのこと一筋に研究している人であればその方こそが、有力な候補ということです。 例えば、大塩平八郎の時のゲストは相蘇一弘さんという方でした。この方のことをご存知の方はそういらっしゃらないと思いますが、大塩平八郎研究の第一人者です。専門の研究家だからこそ出来る興味深いお話をしてくださったのですが、この番組を見た他の研究者は、あの番組に相蘇さんが出たということで番組を見る目が違ってくる。これは有名か無名かと言えばどちらかといえば無名の人ですが、この人を探してきたNHKはすごい、この番組はすごいぞ、これはひょっとしてまじめな良い番組かもしれないと思ってくださいます。1人の視聴者の後ろには100人の視聴者がいる、1人の存在をおろそかにしてはいけないと思います。 徹底した現場主義、徹底した専門家主義の次は徹底した実証主義ということです。私どもはテレビを作って何ぼという仕事をしています。ひとりでも多くの方にテレビを見ていただくことが命、視聴率を得るために来週も見てやろうという番組を作るのは大事なのですが、だからといって、視聴率を取るために何をしてもいいかというとそうではありません。視聴率を取るために魂を売ってもよいか、良心を売ってもよいか、ウソをついてもよいか・・・それはいずれもノーであります。作る側が面白おかしく話を作ってしまわない、想像で語らないということです。すべて論拠を提示しよう、こういう資料があるからこういうことが言えるんだ、発言と論拠を結んで論拠ごとみなさんにご提示しようということです。あえて愚直に出典ごと意見を述べていくという方法論を取ろうということです。決して派手さはないけれども論拠を提示している限りにおいては信用していいのではないかという人が増えていくということです。それが高いご支持につながっているのではないかと思います。 徹底した現場主義、徹底した専門家主義、徹底した実証主義というコンセプトを、徹底して歯を食いしばりながら守っていくということを念頭に置きながら番組を作っているのでございます。 この3つの基本方針のほかにもファクターがあります。たとえば歴史を好きだというと、あんな古臭いものがあなたはよく好きだねえ、という反応が返ってくることが多い。歴史は古色蒼然としていると思っている方が多いのですが、実はそうではないのです。歴史の研究をしていく過程で新しい資料が見つかることがある、また、いままであった資料でも新しい角度から見ることによって、全く新しい歴史の地平が見えてくることがある。要するに歴史は、日々ダイナミックに変わることもあるのです。 私たちは、現在に生きていますから、過去のことの結果を知りうる立場にあります。でも今生きているぶん、その時代にはその場所にはいなかったのだから、本当ことは誰も知りません。歴史の不完全な部分を補うのが資料ですが、これが絶対正しいかというとそうでもありません。 歴史は多くの場合勝者の歴史です。言うまでもなく、歴史は敗者の歴史もあるし、勝者でもなく敗者でもない名もない大変多くの人々の歴史も歴史であります。それを考えると勝者の歴史だけを無批判に無抵抗に取り入れることに恐れを感じなければなりません。残された通説、伝説は勝者をグレードアップさせるために後世の作者がかなりのフィクションを交えて作り上げた危険性もいなめないのです。 端的な例が、長篠の戦については、私が受けた教育では、信長が初めて鉄砲を駆使してその成果で相手をせん滅した戦いであると教わりました。今はそうではないのではないかという意見も多くあります。戦争当日の1575年5月21日ですが梅雨の真っ盛り、雨が多いことが予想される季節です。当時の鉄砲は火縄銃なので火薬をつめて、導火線に火をつけて点火から発火まで相当のタイムラグがあります。いちばんの敵は水分、雨です。私どもは今を生きていて結果を知っていますから、信長、家康の連合軍が武田勝頼に勝つのは当然だとみていますが、戦っている当人にしてみれば1575年当時双方とも真剣です。信長にしてみればここで負ければ今までの勝ちがすべてゼロになってしまう、という真剣勝負でした。それぞれにとって天下分け目の戦いだったのです。 その天下分け目の戦いで、戦上手の信長が、雨の季節に雨に弱い鉄砲を主武器にして使うだろうかという疑問から研究を始めた人がいます。その方は、いろいろな資料をお調べになったのです。戦場は今の新城市あたりですが、山と山に挟まれた狭隘な水田地帯であったので当然下はぬかるみです。その先生は、当日雨だったかどうか調べていくうち、前日、5月20日に大雨が降ったという記述を見つけるのです。前日に大雨が降ってしかも田んぼです。田植えの時期ですから満々と水が入っています。火縄銃は5キロ、甲冑20キロ、入れ替わり立ち代りドロドロの場所で、鉄砲を数時間にわたって打ち続けるのは可能だったか。鉄砲を使ったかもしれないが、あれは信長の情報の勝利であったのではないか。たとえば、その土地の自然の地勢を生かした陣や要塞を作って、信長が事前に準備した所へ武田勝頼をおびき寄せることに成功したといったようなことが勝ちの要因ではないかという説が今は大勢を占めつつあります。 信長は情報の総合戦略を系統的に立てた、情報を収集する、それを自分ひとりで抱える、そして自分の一番使い勝手のよい時にそれを行使したのです。情報の収集、秘匿と行使を総合的に戦略的に打ち出した最初の人が信長と言われています。戦力は武力だけだはないということを最初に示したのは信長です。 1560年、今の静岡県のほぼ全部を統治していた室町幕府の右腕中の右腕、大大名今川義元に信長は戦いを挑みました。信長は20代ですが勝ちました。彼はそれにより群雄割拠から一歩抜け出しました。桶狭間の戦いでは今川の首を取ったのですが、これによって信長は勝利を宣言します。 今までの戦の戦功は、敵将の首を取った毛利新介(助)に与えるのが常識だが、信長は勲章の2位を与えました。1位は、今川義元がどこにいるかという情報をもたらした梁田出羽守という地侍に与えました。彼は今川義元の居所を突き止めたのです。そのことが信長のその後の戦略を決めたのです。 情報をもたらした者に1位の褒賞を与えた。武力よりも賞されることがあるということを天下に知らしめたということで戦略上でも画期的な戦いだといわれています。この後信長は天下取りに向けて邁進するわけです。信長の偉さを浮き立たせるために、「信長は新しい武器もすぐさま自分のものとして使い切った」と、のちの作家が作り出したフィクションではなかったのか。と、ことほどさように、研究が進むにつれて新しい資料が出てきたり、見る角度を変えることによって全く違った歴史の顔が見えてくる、そういうことで言えば、歴史は古色蒼然としたものではない、これが番組制作上の柱のひとつです。 もうひとつは、歴史は暗記物だから嫌いという人がいます。まことに同感で、私も年号を強制的に覚えさせられたという忌まわしい過去がある。こういう覚え方をさせられたので・・・そういう先生はここにはいらっしゃらないかと思いますが・・・暗記が嫌いだから歴史が嫌いという人がいるのですが、歴史というのは私たちと同じ、切れば血の出る人間が流す涙であったり、汗であったりする、人間ドラマが歴史なんだという観点に立とうじゃないか。歴史は無味乾燥なものではない。人間模様が描き出される集積物が歴史なのだ、それを共有できる番組を作ろうということです。 3週間かけて作ったコンセプトは3つ。加えて歴史とは新しいもの、歴史とは人間ドラマなのだということを大切に今後もまじめに番組を作っていこうと思います。 この番組は、大阪で作っている番組ですので、毎週火、水、木曜日は、東京から大阪へ7年半通って作っています。片道500キロ。先日スタッフが計算したら地球8周位しているんだそうです。大阪で作っているということは大物ディレクター、名物プロデューサーの手による番組ではないということです。 今、大阪放送局ではこの歴史番組のために、ディレクターが10人ほどいます。西郷隆盛や伊達政宗などの場合は地元のディレクターが加わることもありますが。最年長は10年選手32歳、最年少は25歳です。若い彼らが足で稼いで調べに調べて寝食忘れて番組作りをしています。収録日の1週間前はほとんど寝ていないだろう、平均睡眠時間は2,3時間だろうと思います。こういう若い連中の悩みを入局12年くらいの兄貴分のデスクが聞いてやり、そのデスクとディレクターを15年くらいのチーフプロデューサーが面倒見てやって作っていくという、若い熱気、何とかして伝えるのだと言う思いが皆様方の胸に響いたのではないかと思います。 高い評価を得ているとしたら功績の95パーセントは彼らの功績です。僕にもし功績らしいものがあるとすればそれは残りの5パーセントくらいのもの。ではその5パーセントは何かというと、それは、オープニングやエンディングの挨拶や、ディレクターが最終的に構成したVTRを皆さんにより効果的に見ていただくためのつなぎのコメントを考えることです。これは、毎週、火曜日の新幹線のなかでやるのですが、東京出発と同時に始めて三河安城あたりでまでかかります。私は一度書いてみます。書くことは大変大事なことでありまして、書くということは目と手が動きますから、きちんと体の中を1回通るわけです。書いたものをストップウォッチで計って調整し、完成するのが三河安城付近。名古屋で弁当を買って、大阪に12時半に着くというスケジュールとなります。いったん書くことにより時間量と情報量を自分の体に覚えさせることができる、それをしてしまったら、原稿をびりびりに捨てます。捨てないとだめなのです。捨てる勇気が新たに言葉をつむぐ覚悟を生むのです。私は何も持たずにスタジオに入ります。 ◇◇◇ 今キャスターやアナウンサーを駄目にしているのはプロンプターやカンニングペーパーだと思います。プロンプターというのは、手許においてある原稿が、自分の目の前ある自分を写すカメラの画面にそっくりそのまま映る装置なのですが、それに馴れてしまうと、「そういうもの」が無ければ、ひとこともしゃべれなくなる。だからプロンプター装置のないスタヂオや外ではカメラの横に大きな模造紙をひろげて、カンニングペーパーを作るのです。それを盗み見する技術が長けている人がいいアナウンサー、いいキャスターという風潮にだんだんなってきてしまったのです。 書かれてあるものをトチリなくスムーズに読んで、それで伝わるかというとそうではない。いまから「伝わる」とはどういうことかをお話しますが、綺麗に読むから伝わるのでは絶対にないのです。全く何にも持たずに、カメラに向かってカメラの向こうの皆さんに改めて、その場で、言葉を紡ぐことをしているから伝わるのです。私の言葉をテープに起こしてみると、「てにおは」はめちゃくちゃだったり主語が下の方にいったり、日本語として不完全ですが、だがおそらく言っている意味は伝わっていると思います。何がなんでも伝えるんだいう思いが、綺麗に体裁よく読むよりもはるかに勝るんだ思う、伝わり方が全然違うと思います。 テレビでものを語るということはどういうことか、テレビは、不特定多数の方が見ているシチュエーションのなかで一定の時間に、まとまったメッセージを、顔を出して、わかりやすくお伝えするということです。そのときに使っている言葉は、書き言葉なのです。アナウンサーの出発点は書き言葉の音声化でした。要するに書いてある文字を読む。テレビは顔を出しながら書き言葉を読んでいるわけで、その不可解感は、皆さんの方が敏感にお感じになるだろうと思います。 書き言葉は論理的なことを言う時に適する言葉です。「ここに時計があります。」より「ここに腕時計があります。」といった方が正確です。「ここに男物の腕時計があります。」「ここに男物の金属のベルトの腕時計があります。」「ここに男物の銀色の金属のベルトの腕時計があります。」もっと正確に言うと「ここに男物の銀メッキの金属のベルトの腕時計があります。」そして「ここに男物の安っぽい銀メッキの金属のベルトの腕時計があります。」このように場合を限定ていしていくと情報量は増えていく。情報が増えると文書は長くなるという宿命を持ちます。 印刷媒体とテレビのような電波媒体との決定的な差は、わからないところに遭遇した時の皆さんの行動です。皆さんの意思で読むことをやめて辞書でひいたり、読み直することが出来るのが印刷媒体。電波媒体は、一回聞くだけの世界です。わからないから止めてくれというとはできない。私はわかろうがわかるまいが言っていくしかない。これが電波媒体の持つ宿命です。伝えようという言葉を、より正確に皆さんに知って頂くためには、言葉を加えることによって、どんどん場合を限定していかねばなりません。そうなると必然的に情報量が増えていく。結果としても、何を言っているのかわからなくなってしまう。書き言葉は電場媒体としてはふさわしくないという言わざるとえません。 対極にあるのは雑談です。これはセンテンスは短い。でも、雑談は全員にわかって貰うことを前提に用いる言葉ではありません。自分の両トナリの人に分ってもらえばいい。だから、論理的ではないのです。これが雑談の要素です。わかりやすいが論理的にはハチャメチャです。 テレビ文体とは、書き言葉の論理性を残しながら雑談のわかりやすさを併せ持つ中間の文体、話し言葉文体、語り言葉文体、要するにテレビ文体があるはずだと思います。これを構成する要素は3つある。ひとつは、「ひとつひとつのセンテンスを短くする」ということです。25年以上前ニュースを担当していたとき実際あった例ですが、書き言葉がいかに文章が長くなって結果としてわかりにくくなったかという典型的な例です。 「来年の春開通が予定されている本州四国連絡橋瀬戸大橋ルートの岡山県側の玄関口倉敷市小島で工事が行われていた世界で初めての2つの眼鏡を重ねたような4つのトンネルがいっしょになった鷲羽山トンネルが着工以来6年ぶりに今日開通しました。」 NHKの文化調査研究所での研究で、見ず知らずの人にいきなり声を掛けられてその人が言っていることがかわかる時間的限度は10秒だそうです。子どもニュースは1分間に300字がスタンダードでした。私は今1分間に410字くらいしゃべります。久米宏さんは440字、黒柳徹子さんにいたっては500字超えていると思います。遅口早口ありますからいちがいに言えませんが、だいたい1分間400字前後とお考えいただくとよい、で、10秒では60から70字が限度ということです。 鷲羽山トンネルの原稿は130字ほど句点がない、この原稿がわかるわけがないのです。主語の鷲羽山トンネルを説明するためにどれだけの修飾句が使われているか、考えてみてください。こんなに説明句が多いと聞いているほうはたまったものではありません。もう一度いいますが書きことばはテレビ文体にふさわしくない文体といわざるをえない。「鷲羽山トンネルは今日開通しました。着工以来6年のことです。この鷲羽山トンネルは」と、センテンスを短くすることがわかりやすくする要素です。 2つ目は皆さんが知りたいと思っている欲求にそった論理展開をしていくことです。報告を求めたとき、何を言いたいのかわからないケースがあります。一番知りたいことが一番最後になるというケースがあります。ロサンゼルスオリンピックで山下泰裕さんという柔道のエースの出る柔道無差別級は大丈夫かと日本人が思っていたとき、送られてきた内容は欲求に沿わない原稿でした。 「15日目を迎えたロサンゼルスオリンピックは日本期待の柔道無差別級の登場とあって沢山の観客がつめかけましたが大観衆のなか日本の山下選手は決勝でエジプトのラシュワンを破って涙の優勝を飾りました。」 スポーツネタですから難しい単語はないので鷲羽山トンネルに比べればわかりやすいのですが、欲求にそった論理展開になっていません。 日本人は何を知りたかったかというと金メダルかどうかということです。「山下金メダルです。」と入らなければいけないのです。これがテレビ文体を構成する中間文体です。 3つめですが、「とあって」というのは完璧な書き言葉表現です。顔を出しながらこういう書き言葉表現を何の疑いもなしに使っていることの恐ろしさを考えるなら使ってはいけないのです。伝え手と受けての間の距離がどんどん開いてしまいます。書き言葉表現を意識的に排除することを考えなければなりません。 使い古された表現というのもあります。春になってれんげが咲くとどこでも誰でも「絨毯を敷き詰めたように」と言いますね。「コアラは長旅の疲れをみせず」と言いますがコアラに聞いたのか、こういう使い古された表現を何の抵抗もなしに記者が書き、デスクが通し、アナウンサーが疑問もなく使う緊張感のなさがニュースのビビット性を損ない皆さんとの距離を広くしているように思います。 つまり、私が毎週火曜日に「その時歴史が動いた」の収録の為に大阪に向かう新幹線の中の、東京駅から三河安城までで表現を考えるときには、この3つのことを考えています。3つのことを考えて時間内でなるべく効果的に収めるようにする、1回書く、書いて体を通したら破いて捨てる、そのことが、何としても皆さんに伝えるんだという思いが、皆さんに伝わっていくんだと思うんです。そのことで番組のグレードを上げることぐらいしか私の役目はないんです。95%は若い人たちの功績であることを、是非わかっていただきたいと思います。今後も愚直に、まじめに1本1本、誠実に作っていこうと思っています。 今日は時間がきてしまいましたが、最後に宣伝させてください。「その時歴史が動いた」は毎週水曜日午後10時からの放送です。どうぞよろしくお願いします。 |